「宇宙戦争」2005年、アメリカ映画、原題「War of the Worlds」

大金をかけた地味で微妙にキモい「インデペンデンス・デイ

 

「かの有名なH・G・ウェルズの『宇宙戦争』を知らずに酷評するな!」と言う人がいるが、それは無理って話しです。Wikipediaを見ればわかるけど、確かに古典的なSF小説で、オーソン・ウェルズのラジオドラマと、それを巡る「ウソの嘘」、さらに1953年、1978年の映画化は、ともに名作として評価され、日本でも大人気の「インデペンデンス・デイ」がアイディアをもらったのだから、SFファンなら誰でも知ってるが、知らない人は知らなくて当然。

だから「最終的に地球上のウィルスで死ぬ」と分かって見ている人には面白いけど、そうでない人にはピンと来ない。つまり「ネタバレを知ってる人なら楽しめる映画」という奇妙な立ち位置になってしまっている。しかし、スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演でそんな映画はないだろう。評価が低い人の意見はムベなるかなである。

では、ネタバレで見て本当に面白いだろうか。「ノー」だと思う。家族を映画と言えば聞こえがいいが、トムと二人の子供がワーワー、キャーキャー騒ぐだけでドラマはない。SFとしても脚本に矛盾が多すぎる(詳細は他のレビューに譲ります)。人間が殺されるシーンも血の描写もホラーの表現に近い。地球上の細菌を「コンピュータウイルス」に置き換えた「インデ・・」のようなドラマチックさがなく、最後の最後に字幕で種明かしというのは大監督がやってはいけない手法である。

シリアスとも娯楽ともホラーともつかない。「大金かけてるなあ」「なんか地味だなあ」という、高級なB級映画(?)を見たような気分である。

 

「ダメおやじ」(3)古谷三敏(少年サンデーコミックス) Kindle版

有名な「思い出のキャベジダウン」の収録されている巻です。小学生の当時の思い出がよみがえります。「ダメおやじ」はアニメ版の印象が強すぎますが、この頃の漫画はそれほど「家庭内イジメ」も酷くなくて、アットホームな感じもあります。

この時代の漫画のkindle版については、だいたいスキャンが悪いです。この作品は「悪い」とまでは言いませんが、それでもイマイチです。

 

古谷三敏氏といえば、究極の〝うんちく漫画〟「BARレモン・ハート」で知られるが、このダメおやじ(3)にもキャンプについての蘊蓄があって面白い。レモン・ハートはいつか読んでみたい漫画だが、忙しいのと酒をやめてしまったので、なかなか手が伸びない。

ビッグウェンズデー

残ったのは友情だった

マット、ジャック、リロイの3人は伝説的なサーファーだった。しかし、名声は新しい世代に常に追い抜かれる。3人とも多くの人と同様に何者にもなれずに歳を重ね、立派ともカッコいいとも言えない仕事をしている。彼らが師事したベアにいたっては、離婚、破産の末にホームレスにまで転落している。どこにでもある、多くの人たどる他愛のない人生だった。

そこに、若いときから待ち続けた「ビッグウェンズデー」が訪れ、離れ離れになって音信も途絶えていた3人が、示し合わせたようにビーチで再会する。サーフィン界の新たなスターにも決して劣らないライドで多くの人を魅了した。しかし、3人はサーファーとして「誰かに勝つ」ことが大切なのではない。波も、ベアが丹精を込めて作ったボードでさえも、次の世代に譲り渡した。3人に残ったのは、名声でも財産でも羨望でもなく「友情」だった。

青春とはかけがえのない生涯の友人を作ることなのだ。

恋に落ちたら・・・

本来なら冴えない刑事をビル・マーレイ、マフィアをデ・ニーロが似合いなのに、敢えて大物ふたりの役を入れ替えている。さすがに二人とも見事に演じ分けており違和感はない。だが、マッド・ドッグがマフィアとの付き合いを受け入れた理由や、グローリーが中年男に惚れる経緯が分からない。そもそもフランクがマッド・ドッグと友人になろうとしたのも、セラピストに言われたからでは何とも締まらないではないか。

 

最後に、マフィアとの警察が対峙して、何が始まるかと思ったら「タイマン」である。それじゃ街の不良じゃないか。そういう子供のような友達関係と喧嘩、絶交、抱いて惚れる10代のような恋愛を描きたかったのか。いや、それならデ・ニーロとビル・マーレイである必要はない。この辺りのユーモアは日本人には理解不能なのだろう。なんとも評価できない。

ディア・ハンター

これは戦争映画ではない

多くの人と同じように、私もかつて印象として残っていたのは、ベトナムでの衝撃的な映像と、スタンリー・マイヤーズクラシックギターが奏でる「カバティーナ」の美しい調べばかりだった。数十年ぶりに見て、この映画は、戦争そのものが主体なのではなく、アメリカという移民国家でそれぞれの文化や宗教を守りながら生きる、どこにでもいる人々が、その時代に刻んだ生活を描いたものであると分かった。

戦争映画というと、敗戦から半世紀がたっても、たんなる反戦、軍部への責任転嫁と被害妄想が多い日本の映画界では、残念ながら、これほど重みのある作品は生み出せないだろう。

ストリート・オブ・ファイヤー

公開当時、この映画がウケたのは日本だけでした。

今でこそ、米AmazonYouTubeで、英語、スペイン語などの言語で、この映画を大絶賛していますが、封切り当時は世界中でズッコケました。北米では、製作費1,450万ドルに対して、興行収入が800万ドルの大失敗で、有名な「Box Ooffice Bomb(爆死)」映画となったのです。それだけでなく、我らがダイアン・レインラジー賞を与える始末です。まったく不届き極まりない。

この映画はアクション映画ではありません。青春映画、音楽映画です。海外のお友達は、まるで映画の見方を分かってません。一方、大ヒットした我が日本では、キネマ旬報ベストテン7位(評論家が選ぶので、自ずとカッコつけた映画が上位にくる)、読者投票では堂々の「1位」です。

 

なぜウケたのでしょう。wikipediaなどで「一人も死者が出ないアクション映画として有名」とあったり、マイケル・パレ自身がインタビューに答えて「日本にはサムライ文化があるから」などと言ってますが全部間違ってます。

答えは簡単です。

 

当時のヤンキーカルチャーと完全に合致したからです。それ以外に理由はありません。


で、もう一度言います。

ストリート・オブ・ファイヤー」は、1984年「キネマ旬報外国語映画賞」の読者投票部門で「ベスト1位」を獲得しました。日本人のセンスの素晴らしさを誇らずにはいられません。
 

ブルース・リーの生と死

マニア以外は見る価値なし。

 

死後、数ヶ月後に香港で公開された映画なわけですが、独自の映像は延々と続く香港とシアトルでの葬儀のシーンと、誰だかよく分からないイップマンの弟子らしき人。しかも、リンダ夫人は葬儀の挨拶をするぐらいでインタビューしていないのに、ナレーションが勝手に彼女の心境を語ったりする、ワイドショーでもやらない陳腐な演出。当時(燃えよドラゴンの公開前)は香港と台湾以外ではまだ無名のアジア人俳優だったにもかかわらず「世界的な大スター」というナレーションは明らかに嘘で、香港のファンが喜ぶような大袈裟な表現をしたことが見え見え。

あとは写真を切り貼りしたり、偉大な武道家、中国人の愛国心を刺激したりのしょうもない演出が続き、その間に過去の作品のアクションシーン(当時はビデオがないので、それだけでも観客は喜んだだろう)と、死亡遊戯の未完成映像、近日公開の燃えよドラゴンの撮影風景を挟むという、これまた高校生の自主映画でもやらない手法。

これはゴールデンハーベストの宣伝とブルース・リーの「伝説化」を目論んだ映画ではないかと思う。香港では所属俳優を葬儀に大量に並べ、シアトルの葬儀ではスティーブ・マックィーンジェームズ・コバーンを呼んでリーの「大物ぶり」を演出したと考えるとしっくりくる。